2024-11-12
Eメールやチャットなど、仕事上、「論理的な文章」を書くことを求められる場面は、多々あると思います。
とはいえ、具体的にどうすれば、文章は「論理的」になるのでしょうか。以下では、専ら文章の形式的な部分について考えてみます。
1 この点、単に自分の思考過程を全て書き連ねれば論理的な文章になる、というわけではありません。
なぜなら、人の思考は、あちらこちらに寄り道したり、突然インスパイアされたりするものであって、それらをそのまま書き連ねても、読み手からすれば、一貫性がない、論理の飛躍がある、といった印象を受けるからです。
それでは、読み手に対し、書き手の結論に至るまでの思考(論理構造)を明確に伝えるためには、どうすればよいのでしょうか。
2 結論として、私は、「一つの文に与える役割を明確にして、適切な接続詞を用いて文と文を繋ぐこと」を意識して文章を組み立てることが重要であると考えます。その理由は次の三つです。
(1) 一つ目の理由は、適切な接続詞を用いることにより、前後の文の関係性が明確になるからです。
例えば、「…である。なぜなら、…だからである」と記せば、結論と理由とのつながりが、誰が読んでも明らかになります。(次の段階として、論証として適切か、という問題が生じますが、本稿では実質的な部分には踏み込みません。)
(2) 二つ目の理由は、適切な接続詞を用いることにより、読み手に対してその後に来る文の性質を予告することができるからです。これによって、読み手に文と文との関係性を意識させながら読み進めさせることができます。
例えば、ある文の後、「しかし」とあれば、読み手には、これから直前の主張と対立する主張が来るのだな、と分かります。また、上記のように「例えば」とあれば、読み手には、これから直前の主張を具体例で説明しようとしているのだな、と分かります。
(3) 三つ目の理由は、文に与えられた役割が不明確だと、その文のうち、どの部分が前後の文とどのようにつながっているのかが分かりにくくなってしまうため、上記(1)、(2)の前提として、文に与える役割を明確にする必要があるからです。
かかる見地から、一つの文に与える役割は原則一つに絞った方がよいでしょうし、一つの文の長さはあまり長すぎない方がよいでしょう。
3 文の役割を明確にするうえでも、適切な接続詞を考えるうえでも、必要となるのは推敲です。
推敲を重ねていくうちに、文中に重複している表現がある、結論を導くためには不要な表現がある、前後の文の関係からして不適切な接続詞が使用されている、といったことに気づくことができます。
その結果、書き手にとっては愛着がある表現であっても、文章全体の論理一貫性のために削らなければないといった事態も生じるのですが、私などは、せっかく書いたのに削ってしまうのは忍びない、何とか残せないか、と頭をひねることも、しばしばです。